「「いってきます」」
玄関で靴を履き終え、冬獅郎と桃は声を揃えて居間で大人気ない(いや大人だからこそなのか)大騒ぎを繰り広げている親たちに向かって叫ぶ。
「はーい、いってらっしゃい」
「気をつけて〜」
返事が聞こえたのは互いの母親たちのもの。
父親たちからの応えがないのは、毎年恒例となっている飲み比べに精を出しているからだろう。
「いつか死ぬぞ、あいつら。マジで」
ドアを開けながらマフラーに鼻先までを埋めて冬獅郎が顔を顰める。冷たい風がびゅうっと吹き付けると、眉間の皺が益々深くなった。門を静かに開けて道に足を踏み入れる瞬間に、またびゅううぅと風が吹いた。
「本当にねぇ。止めろとは言わないけど、そろそろ控えては貰わなくちゃね…」
白い息を空に昇らせながら、苦笑いで桃が言う。が、しかし、その願いは叶わないだろう。アルコールは俺たちのガソリンだ、と言い張る父親たちなもので。
ちなみにそうやって声を揃える父親を互いに持つ冬獅郎と桃はといえば、冬獅郎は酒豪、桃はお酒は嫌いではないけれど然程強くは無い。
「でも実は、お母さんたち年々お酒薄めて出してるのよ?」
「は?」
「酔っ払って味覚が妖しくなってからじゃないと出来ないみたいだけど」
母親たちの用意周到さに、冬獅郎は誉めていいのか恐れていいのか微妙な心持になって、結局は何のコメントも口にしなかった。
「行こう?」
桃は解けてきたマフラーを直しながら冬獅郎に言った。
冬獅郎は頷いて、桃よりも先に一歩を踏み出す。その隣に並んで桃は歩き出した。ブーツの底の、かつかつ、という音がやけに夜空に響く。昼間もあまり人通りのない道ではあるけれど、今夜は異常なくらいに静かだった。
星の声が聞こえてきそうなほどの、静けさ。
去年の大晦日もそうであっただろうか、とポケットに突っ込んだ裸の手(自他共に認める寒がりであるけれど、冬獅郎は手袋が嫌いだった。ので、冬は常にポケットに手を突っ込んで歩くのだ)をにぎにぎと動かしながら、冬獅郎は考える。そして思い出すのは、比較対象がないということだった。去年の今頃、自分は書道の課題に追われていて、外の様子など少しも気にしていなかったのだ。気にしている場合ではなかった。
十字路を右に曲がっても、やはりそこは静寂に満ちていた。時折、家々から笑声や歓声が上がるのが聴こえるだけだ。人通りはない。
どこかわくわくしたように歩く桃を横目で見遣る。
それに珍しく敏く気付いた桃が首を傾げながら「護廷八幡宮でいいんだよね?」と聞いたのに、おお、と頷いた。
今年は二人で年越しをしよう、と誘ったのは桃の方だった。
冬獅郎もそう思っていたのだけれど、家族を大切にする桃のこと、毎年と同じように年越しを家族と一緒に迎えたいだろうと誘いたい気持ちを堪えていたので、桃に誘って貰えて嬉しかったけれど、男としては格好が付かずに若干落ち込んだりもした。
また更に格好が付かないのは、まだ自分の両親にも桃の両親にも、付き合い始めたことを話していない。
わざわざ教えることもあるまいと思っていたのも本当だが、この一年間(そうだ、つい数時間まえに付き合い始めて一年が経った。ようやく、とも、もうか、とも思う)バレないようにとひた隠しにしてきたのだから、やはり格好が付かない。
別に桃の父親が怖いわけではない。が、やはりなんとも腰が引けてしまう。
(情けねぇ…)
こんな自分を知ったら、桃はどう思うのだろう。いや、多分どうとも思わないのだろうけど、それでも気になってしまう。
昔は、去年までは、こんなことはなかった。
幼馴染みだった頃は、桃に嫌わたらどうしよう、などと考えたこともなかった。
念願叶って幼馴染みから恋人に昇格出来た冬獅郎に待っていたのは、甘い時間だけでなく、狂おしいほどの不安も齎した。
ポケットに突っ込んだ掌を、にぎにぎと動かす。何かを掴みたいのか、それとも、まだ足りないと強請っているのか。
「今日のこと」
「あ?」
自分の考えに没頭していたために、返す声は非常に間の抜けたものになってしまった。
「小母さんたちに何て言ってきた?」
今まさに情けなくなっていた事柄を直球で尋ねられて、冬獅郎は頬を強張らせた。ほぼ同時に寒風が吹いたので、その精で強張ったのだと勘違いをして欲しいと願いながら、冬獅郎は口を閉ざした。
桃と二人で年越しをする、とは冬獅郎は言えなかった。
言えなかったので、友達と初詣に行く、とありがちな嘘をついた。
母は「まぁ高校生にもなればねぇ」とあっさり了承し、父は「冬獅郎の薄情者っ」、と避難した。考え方が逆じゃねぇのか、とは思ったが、男女差別だと謗られることが目に見えていたので口を噤んだのだと、そんなどうでもいいことを鮮明に思い出すのは現実逃避に他ならない。
「あたしはね」
はぁ、と一際白い息が空に溶ける。それがどうしてか気になって桃をしっかりと見ると、桃が無防備な白い指先に息を吹き掛けているところだった。何で手袋してねぇんだよ、と自分の事は棚に上げて冬獅郎は説教をしようと口を開く。
「大学の友達と初詣に行くって、言ってきちゃった」
用意していた言葉が、喉の奥へと戻っていった。
まさか桃が自分と同じような言い訳をして家を出てきたのだとは思いもしなかったのだ。
桃は昔から嘘が、下手糞というよりは苦手で、滅多なことでは嘘をつかなかったのに。
桃の指先が、夜目にも赤くなっているのが解る。
「別に嘘つくことなかったんだけど。その…なんていうか…もうちょっとね。二人の秘密にしておきたいなぁって」
はぁ、と指先に吐息を吹き掛けて、少し照れたように続ける。
「だって折角シロちゃんと両思いになれたから、それを誰かに教えちゃうのは勿体無い気がして」
視線を下げて、それがこの世の何よりの幸いというように、桃がはにかむ。
「あ、でもね!皆に言いたいな、って思う気持ちもあるんだよ。シロちゃんとあたしは両思いなんだよーって…」
抱きしめたい、と冬獅郎は思った。
思ったけれど、さすがに往来でそんなことをする度胸は冬獅郎にはない。
だから、桃の痛そうなほど赤に染まった指先を掴まえた。
桃の黒い目が、夜の闇にも溶けずに真っ直ぐ冬獅郎を見る。
「………手袋して来いよ」
何だか居た堪れなくなって、冬獅郎は舌までせり上がっていた言葉を飲み込んで、その代わりに小言を言った。
桃の体温が指先越しに冬獅郎に移ってくる。桃の手は、いつだって暖かい。妙な表現ではあるが、”本人そのもの”のように。
制限速度オーバーで走る車の音が、ぶおん、と遠くに聞こえた。
「シロちゃんだってしてないじゃない」
寒がりのくせに、と今度は逆に桃が冬獅郎の手を捉える。じんわりと、桃の温もりが冬獅郎を包んでいく。
「嫌いなんだよ」
「シロちゃんってどうでもいいことが嫌いだよねぇ」
しょうがいないなぁとでも言うように、桃が微笑んだ。
「なんだそりゃ」
「今年一年であたしが学んだことです」
自慢げに胸を張る仕草を見せる桃に、なんだそりゃ、と冬獅郎はもう一度繰り返した。繰り返しながらも、唇が笑んでいく。
今年一年、色んなことがあった。
悔しいことも悲しいことも情けないことも遣り切れないことも怒りで我を忘れそうになったこともあったけれど。
それでも、この世に産まれてきてから一番の幸福な一年を過ごしたと思う。
目の前の存在が、隣に居てくれたから。
ピピピピピピ、と場に不似合いな電子音が響き渡った。
あ、と桃が片手だけを冬獅郎から離してコートのポケットから携帯を取り出す。親指がボタンを押すと、電子音は鳴り止んだ。
その瞬間に。
家々から歓声と拍手が沸き起こって。
何が起こったのかを、冬獅郎は瞬時に悟った。
新しい一年が幕を明けたのだ。
「あけましておめでとうございます」
手を繋いだまま、きっちりと頭を下げて桃が言う。
「何畏まってんだよ」
デジャビュ。わざとそうしたのだから、再現か。
気付いたのだろう桃が、くすくす笑う。
去年の今を覚えていてくれたことが、互いに嬉しかった。
「今年”も”よろしくお願いします」
去年とは違う挨拶。
二年目を迎える歓びが、こちらこそ、と冬獅郎にらしくもないことを言わせた。
冬獅郎は右手を、桃は左手をポケットに。
冬獅郎は左手を、桃は右手を、愛しい人の手に繋げた。
八幡宮までは、あと10分ほど。
並ぶことになるだろうか。しかしそれも、二人一緒なら苦にならないだろう。
しかし並んだ甲斐なく、きっと賽銭箱を前にしても願いは思い浮かぶまいと、冬獅郎は思った。
神様にお願いしなくたって、今年もまた幸福な一年になる。
桃が隣に居てくれるから。
「あ、でも、書道の課題は同じことしなくていいからね」
鋭く釘を刺してきた桃に、冬獅郎はいつの間にか消えていた眉間の皺を復活させた。
「それ蒸し返すか、お前」
苦い声を搾り出すと、桃は「一生言う」とそっぽを向いた。
そうか一生隣に居てくれるのか、と冬獅郎は密かに心を焦がしながら、甘酒奢る、と桃の機嫌を取りに掛かった。
繋いだ手がそのままなので、本当は必要ないのだけれど。
相互リンクさせていただいている『空色郵便』仁志円寿さんのサイトより頂いてきました今年(07年)の年賀小説です。
すっかりアップするのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした、円寿さん(汗)
「〜こめて」シリーズは個人的にすごく大好きな作品なので、続きが読めてすごく嬉しかったです。
いつも素敵な小説を本当にどうもありがとうございます!(^o^)