真 心 こ め て
半紙を目の前に正座して、冬獅郎は苦悩していた。
 その周りには【勇気】や【希望】や【人生】や【適当】などと書かれた半紙が散らばっている。
 現在、冬獅郎は冬休みの宿題真っ最中だった。
 冬獅郎が今年から通っている高校では入学してすぐに音楽・美術・書道の中から何れかの授業を選択させられる。冬獅郎は、もちろん書道を選択した。鉛筆を持てるようになってすぐに母親に書道教室に通わされていたので、字を書くことは割と得意なのだ。
 書道を選択したことをしくじったと思ったことは今までなかったけれど、冬休みに入る前に、冬獅郎は初めてしくじったと思った。書道担当教諭が、にこにこしながら放った一言のせいで。
 担当教諭は穏やかな声と無敵の笑顔でこう告げた。
『冬休みの課題は書初めです。自分が好きだと思うものを書いてきてください。言葉でも、遊びでも、食べ物でも、何でも構いません』
 何が悲しくて書初め。高校生になってまで書初めか。
 当然ブーイングが飛んだけれど、そこは無敵の笑顔を誇る担当教諭。ついさっきまで浮かべていた笑顔の質をちょっと黒い方向へ変えて(どうやら自由自在らしい)教え子たちを黙らせると、更にこう付け加えた。
『きちんと心を込めて書いてください。私が心が篭っていないと判断したものに関しては何度でも書き直しをして貰いますから、そのつもりで』
 そこまで言わなければ真面目にやって来ないだろうと先を見越した上での発言に、生徒たちは負けを確信した。最初から勝負になどなっていなかったような気はするが、子どもにも一端の矜持というものがあるからして。
 そんなわけで、冬獅郎は現在苦悩中だった。
 書道担当教諭は有難くも有言実行の人なので、何度でも書き直しをさせるというなら本当に何度でも書き直しをさせるだろう。
 それを知っているからこそ珍しく真面目に取り組んではみたものの、自分の好きなものとは何だろうと、そこからして冬獅郎は蹴躓いてしまったのだ。
 なので適当に言葉を書き連ねているけれど、適当なので心が篭っているはずがない。【適当】だけはやけに臨場感に溢れているが、これでは担当教諭は納得しないだろう。
 思わず【面倒】と力強く文字を綴ったところで遠慮がちなノックが響いた。外が静かなので何時もよりも耳を打つそれに筆を硯に立て掛けながら足を崩し生返事をすると、すぐにドアが開いて。
「まだ宿題終わらない?」
 桃がひょこりと顔を出した。
「何か用事か?」
「年が明けたから」
「あ?」
 後ろでにドアを閉めた桃の言葉に冬獅郎は唖然とした。たかが宿題ごときで除夜の鐘も聞こえないほど集中してしまっていたとは。
「あけましておめでとうございます」
 冬獅郎が腕を伸ばせば届く距離まで遣ってくると、桃はきちんと正座して正月の挨拶をした。それに冬獅郎は思わず眉を顰める。
「何畏まってんだよ」
 指摘してやると。
「あ、そうか。変だよね」
 わたわたと顔を赤くして、なんだか、と無理矢理笑った。
「緊張しちゃって。うん、変だよね」
「………」
 三つ年上の幼馴染み(お隣さん)がどうして緊張しているのか、冬獅郎にはすぐに察しがついた。それは、去年の元旦とは自分たちの関係が異なっているからだ。いや、今までの関係に新しいものが上乗せされたといったほうが正しいのか。
 実は冬獅郎と桃は、今日の昼間から『お付き合い』を始めた。本当につい数時間前のことだ。
 今年の最後にと親同士が近所のスーパーに買出しに行ってしまい二人きりになったとき、何が切欠だったのか、冬獅郎のほうから告白した。
 好きだ、と。
 いつからなんて解らないけど好きなんだ、と。
 半ば衝動的な告白に自己嫌悪と深い絶望が胸に宿ろうとした瞬間冬獅郎に向けられたのは、はにかむようにして頷く桃の姿だった。
 あたしも好きだったの、と。
 夢かと思うほどの幸福は、けれど帰ってきた両親たちのせいで余韻に浸る間もなく心の中に引っ込んでしまったけれど。というか、あんな状態の中で親と面と向かって話す勇気など冬獅郎にも桃にもなかったのだ。
 逃げるように自分の部屋に戻り(桃は毎年恒例『近所五軒年越しパーティー』の準備に借り出された)、気持ちを落ち着けたくて取った筆で、ついでとばかりに冬の宿題に取り掛かっていたのだった。
 お互いに黙り込んでしまうと、階下から賑やかな音が上ってくる。年越しパーティーは今年も盛大に執り行われているようだ。
 それに煽られるようにして、あまりにも間が空きすぎたことに何処か焦って、冬獅郎は咄嗟に切り出した。
「桃」
「なに?」
「俺の好きなものってなんだ」
 冬獅郎は質問してから、よりにもよって何て間抜けな切り出しだと頭を抱えたくなった。表面にはおくびにも出さないけれど、付き合い始めたばかりなのだからもっと色っぽいようなことを切り出したって良かったではないか。言い訳めいた声で、書道の課題で、と付け加える。それもこれも担当教諭が強いからいけない。いっそのこと宿題を出さないという選択を選ぼうか。そしたらきっと書道クラスでの英雄になれるだろう。いやなりたいと思ったことなど一度もないが
。  しかし実は一番いけないのは、付き合い始めたということにとてつもない照れと戸惑いを感じて余計なことしか頭に浮かばないでいる自分だということを、冬獅郎は十分に承知しているのだけれど。
「シロちゃんの好きなもの?」
 桃はうーんと正座したまま顎に手を当てて考え込む所作を見せた。
「………春になると、嬉しそうな顔するよね」
 お昼寝に最適だからかな、と桃は視線を床に投げたまま答えた。
「あとは、やっぱり剣道でしょ。全国大会出場して、スポーツ推薦貰えるくらいだもん。それから、今やってる、お習字。書道教室辞めてからも時々書いてるもんね」
 更に桃は続ける。
「それから、テレビはドキュメンタリーが好き。ドラマって観てるのみたことないなぁ。本も物語よりは実用書が好きでしょ?人の知恵みたいな知識を増やすのが好きなのかな?」
 本人を目の前にして遠い人のように質問をするのはどうかと思ったが、好きや嫌いという観念で自分の行動を把握したことがない冬獅郎には咄嗟に答えられない。桃の言葉を追っていくうちに、そういえばそうかもしれない、と冬獅郎は逆に納得させられる。知識を増やすことを好むか好まないかは別にして、空想の話には興味が無いのは事実だ。
 それからも桃は自分が思いつく限りの【冬獅郎の好きなもの】を列挙していった。そのたびに冬獅郎は、そういえばそうかもしれない、と納得していく。
「………良く知ってんな」
 あとは、と桃が言葉を切ってもっと深く思考するような仕草を見せた瞬間に、冬獅郎は半ば簡単気味にそう呟いた。
 すると桃は目をきょとんとさせてから、ふうわりとはにかんだ。けれどそれには何処か切ないような空気が漂っていて、冬獅郎は思わず手を伸ばしかける。



「好きだったから」


 だからずっと見ていたのだと、桃は言った。
「些細なことでもシロちゃんを知れることが嬉しかったの」
 これってストーカー?、と茶化すようにした言葉に堪らない気持ちになって、冬獅郎は腕を伸ばして桃の二の腕を掴んで引き寄せた。いきなりのことに桃の華奢な体が前のめりに冬獅郎へと倒れこんでくる。それをしっかりと抱き止めて、冬獅郎は目を閉じた。
 もっと早く告白すれば良かったと、両思いを知った途端に込み上げた感情がまた蘇る。あのときは何と言う自惚れだと思ったけれど、今はそうは思わない。
 もっと早く告白すれば良かった。すれ違っていた時間が無駄だったとは思わないけれど、それはまた別の次元で時間を無為に過ごしたと思う。
 なに、と首を傾げる桃の頤を別の手で抑えて、キスをした。
 階下からどっと笑い声が起こる。けれどそれは朧のように響くだけで、桃の早くなっていく鼓動に耳を澄ます邪魔にはならなかった。
 我に返ったように身を引く桃に逆らわずに手を離す。こちらを真っ直ぐに見る桃は、何をされたのか解らないという顔をしながらも、びっくりするほど真っ赤になっていた。首まで赤い。
「しししししししシロちゃん!?」
「どもりすぎだ、ばか桃」
 呆れたように言って、離れた痩身をまた腕に抱く。慌てふためく桃の顔からは先程までの影を帯びた表情は何処かへ行ってしまっていたことに密かに安堵しながら。
 あんな顔を、もうさせたくない。
 だから、大事に大事にしよう。



 自分にとって奇跡のような人が、この腕の中にいることの奇跡を。



 ばかはシロちゃんでしょ、と腕の中でもがくのに「お前のほうがばかだろ」と返す。
 そうしてまた頤を捕らえて顔を近づけようとした瞬間を狙い済ましたように、「ももーシロくんのお勉強の邪魔しちゃだめーじゃなーいー!」という酔っ払い全開の声が階下から這い上ってきた。見られているわけでもないのに絶好のタイミングで声をかけられ、冬獅郎と桃はほぼ同時にお互いから身を離す。
 何とも言えない空気が二人の間に漂った。
「……………じゃあ、下に行くから」
「……………おぉ」
 それ以外にどう応えろというのだ。ドアへと向かう体を引き止めることは簡単だ。先程のように二の腕を掴んで引き寄せればいい。けれど、何故あんなことが出来たのかと己の行動を恥じ出してしまった冬獅郎にはもう出来ないことだった。  少し痺れたのか脹脛の辺りをとんとんと叩いてからドアを開け、そのまま階下へ降りていくと思われた桃が、ふと思い出したように振り返った。
 何だと怪訝に思う冬獅郎の視線の先で、桃はフローリングに畏まったように正座した。そして。



「今年、から、お世話になります」



 何も返せず眼をぱちくりさせる冬獅郎に、薄紅に染まった頬を抑えながら「じゃあ宿題頑張ってね」とドアをしめた。
 ぱたぱたと騒がしい足音が遠のいていく。
 暫く固まっていた冬獅郎は、ぎこちない様子で筆を取った。
 姿勢を正して墨に筆先を浸す。
 ゆっくりと、けれど滑らかに文字を書いてった。
 一文字一文字を、やたらと丁寧に。
 桃は一体どんな気持ちで、今年から世話になる、と自分に告げたのだろうか。
 墨を、半紙が優しく受け止めたそれを視認して、馬鹿みたいだとすぐに斬って捨て脇に置いた。
 それから桃が先程羅列した文字を書いてみる。【春】【昼寝】【剣道】【習字】【ドキュメント】【実用書】と綴っていく。
 しかし、何を書いても再開一枚目以上のものは書くことが出来ず。
 冬休みの間中、散々迷って惑って保留にした挙句、冬獅郎はそれを提出した。




















 後日、冬獅郎の作品は、書道担当の卯ノ花教諭に大層誉められた。
 心底嬉しそうな教諭に『並々ならない愛情に満ち溢れていて大変素敵な作品です』と言わしめさせた冬獅郎の習字は、こう書かれたものだった。



 【雛森 桃】



 どこかからその話を聞いた桃が「何でそんな恥ずかしいこと出来るの!」と顔を真っ赤にして怒るのはもう少しあとの話だ。
 けれど冬獅郎だって恥ずかしいはずはなく。
 あれなに彼女の名前か、と尋ねて来た同級生に、「ひなもりっていう名前の桃があんだよ」などと下手な嘘をついて誤魔化していたりしたのは、墓まで持っていく秘密だ。




















 付き合い始めて一ヶ月も経たないうちに破局の危機を迎えた冬獅郎が四苦八苦するのは、また別の話。





相互リンクさせていただいている『空色郵便』仁志円寿さんのサイトより、またしても頂いてきましたDLF小説です。
ヘタレな日番谷さんが素敵です。が、そう見えてどこかちゃんとカッコいいところがすごいです。
いやでもやっぱりヘタレてるか……(笑)。でも好き。ヘタレ乾杯!(…と円寿さんにも言ったら、賛同していただけたのでここにも記載)
円寿さん、本当にどうもありがとうございました!(^o^)