座布団の上に正座してぴしりと文机に向かう日番谷の後姿を見詰めながら、雛森も背筋をぴんと
伸ばして座布団の上に正座していた。
本当なら日番谷は(そして雛森も)半日分の休みのはずなのだけれど、ノルマが終わらなかったの
で自室まで仕事を持って帰ってきたのだ。
うららかな昼下がり。
全開にした障子の向こうからそよそよと漂う風に、銀糸の髪がむずむず揺れている。
それが何だか、早くこの任から解かれて昼寝をしたいという日番谷の本音を代弁しているようで。
くすり、と笑んだ瞬間、さらり、と頭に浮かんだ想い。
キス、したいなぁ。
…………ぽん、と雛森の頬に朱が走った。
今のなし、と慌てて頭の上をぱっぱと払う。
昔は、ふとした瞬間に『触れたいな』と思うだけだったけれど。
今はふとした瞬間に『キスがしたいな』と思うようになってしまった。
あの頃だって随分とわがままだったと反省しているのに、今、そのわがままはもっとずっと膨らんで
いっている。
恋をするとわがままになると言ったのは誰だったろう。
その言葉どおりに雛森は日々、わがままになっていってる。
なんとか踏みとどまらなければと、できることならユーターンしたいと思うけれど、それはなかなか
上手くいかない。
「なんだよ」
「え?」
いつの間にか焦点をどこかにやっていた視線を日番谷に戻すと、彼は背中を向けたまま。
「さっきから背中に穴が開きそう」
「あ、ご、ごめん」
背中を向けた日番谷にもわかってしまうほどに見詰めていたのかと想うと恥ずかしくて、くるりと雛
森は背中を向けた。さっきから赤かっただろう顔が更に赤くなっているのを隠したかったこともあるけ
れど。
「なんだよ」
「なんでもない」
「なんでもなくて人のことじっと見んのかよ」
「そ、そういう日もあります」
「ふーん」
と、ぽきぽきと指を鳴らす音がした。思わず赤い顔のまま日番谷のほうへと顔を向けなおすと、日
番谷が立ち上がるところだった。徐々に近づいてくる日番谷の目が餓鬼大将めいているのに、雛森
は一瞬で嫌な予感を覚えて、座布団に座ったままじりじりと後ろに下がった。しかし、座布団が畳の
目に引っかかって上手く後ろに進めない。
すぐに追いついた日番谷は雛森の目の前に屈みこむと、きらんと目を光らせて。
忍び寄る、無骨な、でも綺麗な、指先は。
―――――― あははははは………っ!!!
わき腹のあたりを容赦なくくすぐってきた。
「や…ちょ、ひつ…はは、も、ほん…」
息も絶え絶えに笑いながら雛森は身をよじり逃れようとしたけれど、上手に力が入らず失敗する。
もともとがくすぐったがりで首筋を撫でられただけで笑ってしまう雛森なので、これはもう本当に堪ら
ない。
体が畳にくず折れるのに時間はかからなかった。
笑いすぎて目に涙が滲む。
「や、も、やめ、やめて〜」
意に沿わない笑い声が口から零れ落ちていく合間合間に懇願すると、ぴたりと日番谷の指が止
まった。
「言う気になったか?」
飄々と告げる彼に、ひきょうもの、と雛森は涙目で睨みながら訴える。
「いいから言えよ」
そう言いながら、日番谷の指先がひらひらと動く。
言わないならまたくすぐってやるという無言の脅し。
それなのに、その瞳の色彩は、柔らかくて。
ずるい、と雛森は心の中で拗ねたように呟いた。
その瞳の色に自分が逆らえないことを知っているのではないかと疑いたくなる。
けれど、そんなことが出来るほど器用でない人だということは、よく知っているけれど。
「ほら、言えよ」
いつの間にか顔の下に敷かれていた座布団を、雛森は頭の上にぽふんと被せた。
「き、きすがしたいなって」
声が変に上ずった。
年上の余裕を見せて、なんてことない声を出したかったのにと、悔しさにちょっと唇を噛む。
そよそよと、風が吹いた。五月を思わせるように爽やかな風が。
沈黙が続く。
そして突然、座布団を剥いだ。雛森の手がそれを厭うように座布団に伸ばされるのを振り払って、
ぽんと縁側に投げると。
「しろよ」
したいんだろ、と彼はチャシャ猫の目で言った。
「け、けっこうです!」
びっくりして身体を起き上がらせた。思わず敬語で辞退する。
「遠慮すんな」
「してません!」
「してんだろ」
「してないってば!そ、それにほら、日番谷くん、まだお仕事終わってないでしょう?また乱菊さんに
怒られちゃうよ!」
「勝手に怒らせときゃいいんだよ」
「そういうわけにはいきません!」
「話し逸らすなよ」
「正論を言ってるだけです!」
雛森が力いっぱい声を張り上げるのに日番谷はちょっと考えるそぶりを見せて、それから……目を
閉じた。
「………ひつがやくん?」
そしてそのままじっと動かない。
どうやらキスをするまでここから動かないつもりらしい。
さっきのくすぐり攻撃と同じ戦法。
「〜〜〜〜〜ひきょうものっ」
雛森の言葉もなんのその。日番谷は静かに目を閉じたまま、雛森の返答を待っている。
………おそるおそる、眉間の皺にキスをして、すぐに唇を体ごと引っ込めた。
まだ日番谷は目を開けない。
今度は右のこめかみにキスしてみる。
それでもやっぱり日番谷は目を開けない。
次は右目の下に。鼻先に、それから、右頬に。
そして唇……の、端っこに。
どくどくどくどくと凄まじい心音が耳に響く。
もう幾度となくしているはずのキスなのに、胸の高鳴りはいつまでもやって来て。
触れるだけでは、もう、足りない。
わがままな心はどこまで肥大していくんだろう?
それが雛森には少し怖く思えた。
「も、もう、結構です」
恥ずかしすぎて泣きたいような気分になりながら、雛森は顔を真っ赤にして自らの限界を告げた。
そしてその場を離れようとするのを、優しくて強引な力がとどめる。
浮かせた腰をそのままに力の方向を見やると、日番谷の指先が雛森の手をがっちりと掴んでいた。
その眼はもう開かれていて、その色はまだ餓鬼大将めいている。
「本当に?」
先ほど自分が言った、結構です、に対する問いかけなのだとすぐに思いついて、雛森はこくこくと首
を縦に振った。
これでようやく開放されるだろうと、一安心したのも束の間。
「じゃあ次は俺の番だな」
何が『じゃあ』で、何で『次があるのか』と、雛森が疑問を抱くよりも早く。
ふわり、と眉間に温もりが宿った。
どっどっどっどっどっ、と心臓がオーバーヒートするのに時間は掛からなかった。
ついで、右のこめかみに、それから右目の下に、鼻先に、右頬に、唇は下りていく。先ほど自分の
行動をなぞられているのだと気づいたら、鼓動はもっと早くなった。
「目ぇ閉じねえの?」
言われて、慌てて目を閉じる。日番谷の笑う吐息が頬を打った。
それがなんだか悔しくて、あまり力の入らない手をぐーにして、ぺしりと日番谷の腕を叩いた。する
と、その手をやんわりと捕まえられる。
両手をつないだ格好で、唇に唇が落ちてきた。
それは一度では終わらずに、二度、三度、四度、と何回も何回も触れてくる。
まるで宥めるような、ごめんなさいと言っているような、キス。
いつもは尊大な彼の、その殊勝な態度が何だか可笑しくなって、ふふ、と雛森は吹き出した。
「………なに笑ってんだよ」
ちょっと不機嫌そうな声が至近距離から響く。
「うん、なんかね」
ほわりと心に灯った気持ちを言葉に出来なくて、雛森は沈黙する。
そっと目を開けると、雛森の言葉をじっと待つ、お利巧な犬の目と視線がぶつかる。
雛森はますます、ふふふふふ、と肩を揺すって笑った。
「なんだよ」
ぎゅっと、繋いだ両手に力が篭められるのがくすぐったい。
そこから日番谷の温かな想いがじわじわと伝わってくるようで。
………もしかしたら、と雛森は考えた。
触れたいとか、キスがしたいとか、そう願うようになるのは。
胸の奥底にある『大好き』を、言葉を尽くしても伝えられないからかもしれない。
伝えられない言葉の代わりに、溶け合うことを求めるのかもしれない。
そのせいでわがままになるというのなら、それは少し誇らしいことではないだろうかと、雛森は思っ
た。
先ほどまでの余裕の態度から一変、憮然と目を尖らせる日番谷に、雛森はにこっと笑いかけた。
そして目にもとまらぬ早業で日番谷の呼吸を感じる距離まで顔を近づけて。
翠の双眸を柔らかく見詰めながら、唇にキスを落とした。
伝えきれないほどの『大好き』を、ありったけに詰め込んで。
相互リンクさせて頂いている『空色郵便』仁志円寿さんのサイトより
頂いてまいりました弐拾萬打記念の小説です。
Kiss、キス、きす、鱚(違)……の嵐。
円寿さんは日番谷君が親父になってしまったと仰っておりましたが、
全然親父じゃないと思います!むしろコドモ?!……いや確かに彼はコド……(爆)
えーと、とにかく、そんな日番谷さんがとても可愛いと思いました。
円寿さん、本当にありがとうございました!
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