日番谷冬獅郎の彼女は芸能人だ。
正確に言うならば、彼女がつい一年前に芸能人になった。
名前を『雛森桃』。
昨年の朝の連続ドラマで主人公の親友役を好演し、各方面から評価を受け、現在人気急上昇中
の実力派新人女優である。
一年前には雛森はもう既に日番谷の彼女で、更に言うなら二人が知り合ったのは小学生時代に
まで遡る。
「ひつがや」と「ひなもり」だったので、席が隣同士になったことから二人の縁は始まった。
友達としては今年で彼是十年目になる。ちなみに、付き合い始めてからは来月で三年だ。
それだけ長い付き合いであるので、日番谷は雛森が血を吐くほどの努力をして女優になったことを
知っている。もっと言ってしまうなら、雛森が女優を目指そうとした瞬間も知っている。
あれは小学校三年のときの学芸会だった。演目は『オズの魔法使い』。雛森は主人公・ドロシーの
前半部分の役(役が足りなかったので主要人物は前半・後半と二人で演じられたのだ)だった。雛
森は前日まで…というか、本番が始まってからも緊張しまくっていた。何故なら、始まって直ぐにソロ
で歌う場面があったからだ。もうなんというか、舞台裏にいた全員が祈るような気持ちで雛森のことを
見ていた。
結局、雛森はソロを完璧に歌い上げた。練習に練習を積み重ねていたおかげで、体が全てを覚え
ていてくれていたのだ。
雛森が歌い終わった瞬間に沸き起こった拍手の渦。
それが雛森に『芝居』への興味を抱かせる切欠だった。
緊張の面持ちの中、それでも目だけをキラキラ輝かせていた雛森を、日番谷はいつまでも忘れて
いない。
女優になることは、あの頃からの雛森の夢だったのだ。
その夢が叶えられた事を、日番谷は心から喜ばしく思っている。
一生懸命に努力している姿も、諦めようと涙した姿も、端役ながらも初めてテレビで台詞を貰えた
時のとびきりの笑顔も、日番谷は知っているからだ。
だけど、浮かんでくるのは綺麗な感情ばかりではない。
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午後九時、日番谷はリモコンで部屋のこじんまりとしたテレビをつけた。
しばらくするとテレビから時報の音がした。
同時にCMが終わって、深夜の公園が映し出される。そこから人影に向かってズームしていき、見
なれすぎた顔がモニタいっぱいに登場した。それから、先週耳にしたのと同じ台詞が彼女の唇から
零れる。
「何見てるの?!」
ごとごとん、と騒音がして、日番谷の背後から悲鳴が上がった。
日番谷が素っ気無く振り返ると、そこには今テレビ画面に映し出されているのと同じ顔がある。
足元に落ちている缶ジュースが先ほどの派手な音の原因だろう。
雛森は久々のオフを日番谷の部屋で過ごしていたのだ。
「『魔法の言葉を知ってるかい?』」
2週間前にスタートした高視聴率青春ドラマだ。
「そうじゃなくて何で見てるのかって聞いてるの!!」
雛森は子どもが癇癪を起すみたいに真っ赤になりながら言う。
「誰かさんが出てるからだろ」
しれっと日番谷は言って、テレビに視線を移した。
先週のダイジェストは終わっていてオープニングが始まっている。
テロップには丁度『雛森桃』の文字。
「見ちゃダメ!」
雛森が落とした缶ジュースをそのままに、日番谷からリモコンを奪取しようとする。
日番谷は首を傾げた。
日番谷が雛森の出演している番組を見るのは初めてのことではない。それにいつもなら、恥ずか
しそうにしながらも、日番谷の感想を待っているのに。
「………なんでだよ」
悪い予感が、した。
「なんでも!」
「理由も言えないことで行動に制限かけられる筋合いはねェ」
「本当に駄目なんだってば、日番谷君」
リモコン目指して必死に伸ばされる手をひょいひょいと避けながら、日番谷はテレビに視線を戻し
た。
「ひつがやくん!!」
雛森はそう叫ぶと作戦を変えてきた。日番谷に乗りかかるようにして、華奢な手で日番谷の目を
覆い隠そうとする。リモコンを死守しながらそれを避けるのは困難で、とりあえず日番谷の左目は塞
がれてしまった。
「『好きだ』」
瞬間、テレビから切ない声がした。
そして塞がれゆく日番谷の右目が見たのは。
相手役の俳優と、目を閉じずに唇を重ねる雛森の無表情。
「………」
視界が真っ暗になったのは、雛森の手で目を塞がれたからだと信じたい。
視覚を奪われた事で鋭敏になった耳に、わからない、とテレビから雛森の声が届いた。
日番谷は何も言わなかった。
雛森も、何も言わない。
流れる重苦しい沈黙を気にも止めず、ドラマはさくさく進んでいく。
覚悟といってしまうのは大袈裟かもしれないが、日番谷はいつかこんな日が来るだろうなと思って
いた。
最近ではそういうシーンのないドラマを見つける方が難しい時代だ。
だから、いつか雛森がそういう演技をする日が来ても、気にするなと鼻で笑う気でいたのだけれど。
実際に目の前に突きつけられて浮かんだ感情は、どうしようもない悔しさだった。
雛森が女優になれたことを心底良かったと思っているのは本当だ。
だけど同時に、雛森が女優になったことで、雛森の一部分を盗られてしまったことがどうしようもなく
腹立たしいのだ。
雛森の声を聴く時間が格段に減った。
雛森と会う時間が格段に減った。
雛森に触れる時間だって格段に減った。
雛森が自分と過ごしていたはずの時間を、雛森は『視聴者』のために使っている。
それが日番谷には許せなかった。
仕方のないことだと解ってはいても。
独占欲なんてものを『くだらない』と一蹴していた自分にはもう還れない。
気付いてしまった。
誰にも少しだって渡したくなかったと叫ぶ、心の奥底の自分に。
「離せよ」
意図することなく、冷たい声が出た。
やつあたりだということに日番谷は気付いたけれど、謝罪の言葉は口をついて出なかった。
雛森の手が、そろそろと離れていく。
蛍光灯の灯りが目に眩しくて、日番谷は二度、三度と瞬きをした。
雛森の唇が動こうとして、けれど結局は引き結ばれた。
泣きそうな表情から察するに、多分、謝ろうとしたんだろう。
でも謝るのは不自然で、口を噤んだのだ。
日番谷だって、謝って欲しいわけではない。
謝られたってしょうがないことだし、謝ったところで雛森が同じことを繰り返さないと約束できるはず
もない。
だって雛森は女優なのだ。
台本に書かれていることを忠実にこなし、観る人々に感動を与えることが仕事。
そのためになら、ああいうシーンも平気でこなす。
それは決して間違っていないし、雛森はそうで在らなければならない。
だから、間違っているとしたら、それは日番谷の方なのだ。
心の狭い自分が悪い、と日番谷は無理矢理結論を出した。
出したけれど、それに心がついていかなくて、泣きそうな雛森に優しい言葉をかけられない。
沈黙は続く。
ドラマも続く。もう見る気はしなかったけれど。
全てはこのドラマがいけないんだ、という責任転嫁が日番谷の頭に過った。
無意識に死守していたリモコンでテレビを消そうかとも思ったけれど、そうすることで雛森をまた傷
つけてしまいそうで。
もう傷つけてしまったけれど、更に傷つけることはできなくて。
日番谷はどうすればいいのかと逡巡した。
その瞬間、日番谷の目の前に影が落ちた。
唇に、柔らかく感触が降る。
それは一度離れて、二度、三度とやってきた。
日番谷が唖然として顔をあげると、逆光の中に真っ赤な顔をした雛森が居た。
まだ帰っていないのだから、居た、という表現は可笑しいかもしれないが、雛森を意識の外から外し
ていた日番谷にとってはその表現が正しかった。
感触がキスによるものであったのだと認知するのに、少し時間がかかった。
雛森は唇をきゅっと噛み締めると、必死な顔で、泣きそうな声で、告げた。
「台本なしでこういうことするの、日番谷君にだけだから」
だから、と繰り返して、雛森の唇はぱたりと動かなくなった。
俯いてしまった首が震えている。
ばちん、と。
目の前で大きく手を叩かれた気がした。
先ほどのキスシーンが頭の中に蘇える。
日番谷は雛森の髪を丁寧に引っ張って上を向かせると、今度はこちらからキスをした。
雛森の目が、ギュウウっと閉じられる。
(テレビの中の雛森は目をずっと開けていた)
雛森の頬に朱が走る。
(テレビの中の雛森は顔色一つ変えなかった)
唇を離すと、雛森はあわあわと慌て出した。
(テレビの中の雛森は、冷静に「わからない」と呟いていた)
ばちん、と。
先程よりも大きな音が日番谷の目の前で鳴った。
日番谷の心に黒のマーカーで大きな文字が書かれていく。
あれは芝居なんだ。
キスをするとき目を閉じる。頬を赤くする。唇を離すと途端に慌てる。
それが、日番谷がずっと見てきた雛森だ。
あれは芝居なんだ、と日番谷はもう一度心の中に書きなぐった。
テレビに映っているのは偽者。
今、目の前にいるのが、本物
現金な話だが、そう考えれば心は驚くほど軽くなった。
何時の間にか不安そうにこちらを見詰める雛森に、日番谷はまたキスを落とした。
やっぱり雛森は目をギュウウっと閉じた。
ごめん、と口にするのは逆に雛森を傷つけてしまいそうで憚られた。
思わず日番谷の口を突いて出たのは、。
「真っ直ぐ帰ってこいよ」
という非常に解り難いものだった。
(そうしてここで、本物のお前を見せてくれればそれでいいから)
それでも長い付き合いである雛森には十分意味が通じたようで。
そして雛森はブラウン管ごしには決して見せないとびきりの笑顔で、日番谷に抱きついた。
04/07/10
相互リンクさせていただいている『空色郵便』仁志円寿さんのサイトより
八萬打記念のフリーSSを頂いてきました。
雛ちゃん芸能人、日番谷君が一般人(の彼氏)。この設定、すごく好きです。
逆の立場だと雛ちゃんがとことん距離感感じて別れちゃいそうだけど、
日番谷君なら大丈夫と思うし。むしろ自信満々?「雛森を幸せにできるのは俺だけ」みたいな(笑)
円寿さん、本当にありがとうございました。
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