「ちょ、ちょっと日番谷君!」
掴んだ掌をそのままに強引に歩き始めたら、掌を掴まれた雛森が慌てたように声をかけてきた。
しかし日番谷は、それに綺麗に無視を決めこむ。
「日番谷君ってば!」
どたた、と廊下を踏む酷い音がするのは、雛森が足を踏ん張ろうとして、けれど日番谷の有無を言
わせぬ力に叶うことは出来ず、足を縺れさせながら前に進んでいるからだ。
「どこいくの?!」
「少しは黙ってろ」
日番谷は一言だけそう返し、廊下をすたすた歩いていく。もちろん、雛森の掌を掴んだまま。
雛森は最初こそ思いっきり抵抗していたが、ついには諦めて、大人しく日番谷に手を引かれるまま
に廊下を進む。
辿りついたのは、十番隊の執務室だった。
「私にお仕事?」
雛森はきょとんと首を傾げて尋ねた。だったら最初からそう言ってくれればいいのに、という台詞が
真っ黒な目に浮かぶのを一瞥して、日番谷は溜め息を洩らした。
繋いだままにしておいた手をぐいっと引っ張って、無理矢理執務室に連れこむ。
「わぁ」
小さく悲鳴をあげると同時に、雛森はソファの上に投げ込まれた。柔らかなソファが衝撃を吸収し
て、優しく雛森を受けとめる。
「そーゆー台詞は」
何するの、とソファにちゃん座りながら怒りかけた雛森の鼻先に、何かが付きつけられた。
「自分の顔見てから言え」
日番谷の手に握り締められていたのは、朱色の手鏡だった。
「………え?」
呆ける雛森に対して日番谷は苛立たしげに舌打ちをして、雛森の真正面に来るようにして鏡を向
けた。
鏡の中に映った自分を見て、雛森は心底びっくりした。
「顔色悪い」
病人のような肌の色だけでなく、眼の下の盛大な隈も気になった。
そういえばここのところ録に寝ていなかった気がする、と雛森はぼんやりと思い出した。
鏡の中に映った間違うことのない自分の顔を、まるで他人事のように呟く雛森に、日番谷は思わず
項垂れてしまう。
溜め息を、一つだけ、しかし深々とついて。
「そんな顔してるやつに仕事なんてさせられるか」
「でも今、仕事中だし…」
「五番隊のやつらが『仕事はいいから休ませてくれ』って俺のとこに来たんだ」
「なんで日番谷君のところに?」
「…………なんでだろうな」
もうどうにでもしてくれ、というような響きを伴った日番谷の返答に、雛森はまた首を傾げる。
「日番谷君?」
「………………それでだ」
日番谷は天然ボケは放っておいて、任務を遂行することにした。
「とりあえず三時間だけ休憩しろだと」
「でもみんな仕事してるんだし私だけなんて…」
「そんな顔で仕事されたら周りが迷惑だ」
「………」
未だに目の前にある手鏡に顔を映せば、日番谷の言い分はもっともで。
「わかったな。それじゃ寝ろ」
言って、日番谷は雛森の両足をひょいと持ち上げた。その勢いで、雛森はべしゃりとソファに寝そ
べる体勢になってしまう。日番谷はついでとばかりに雛森のお団子頭を解いてしまった。ソファの上
に、真っ直ぐな黒髪が広がる。
「寝ろ」
「………そんな直ぐに眠れないよ」
「寝れなくてもいいからとりあえず目ぇ瞑ってろ」
「日番谷君は?」
「あ?」
「お仕事…だよね?」
「………ここでな」
ここは十番隊の執務室なのだから。
「あ、そっか」
「いいから、目ぇ瞑れ」
日番谷は雛森の目を覆い隠すように掌を置いた。
大きな掌。
眠ってしまえばこの温もりが逃げていってしまうのだと思ったら、雛森は何だか少し淋しくなった。
ここ数日の睡眠時間をなんとなく思い返して、思い返したらだんだん頭が重くなっていく。
思考が急に、可笑しな事を考え出す。
大人しくなった雛森に眠ったのだと判断した日番谷の手が、そっと剥がされていく。
「日番谷君」
雛森は大きな掌を、がしっと掴んだ。
行かないで、と心細そうな声とともに。
それなわけで膝枕である。
あんなことを言われて離れられる日番谷ではない。
しかし仕事はしなければならない。
苦肉の策として考え出されたのが『寝るまで』という条件付きで、日番谷が雛森に膝枕をするとい
うものだった。
執務に手は使うが足は使わない。
雛森は日番谷の膝の上に自分の重ね合わせた両の掌を置き、更にその上に自分の頬を乗っけて
いる体勢。
日番谷はとりあえず目を通すだけの書類の束をソファの前の背の低いテーブルに置いて、そこから
十数枚を手元に残す。
「それなに?」
膝の上から眠そうな雛森の声が届く。
「反省文」
早く寝ろよ、と思いつつも逆に言いすぎると逆効果かと考えて、素直に応えてやる。
「?」
「ちょっとあったんだよ」
ちょっと、というのは控えめな表現だった。十番隊内部で起こったことだったから許されたような、事
件と呼んでも差し支えのないもの。
「ちょっとって?」
「喋ってる暇あったら寝ろよ」
「そんなに直ぐには寝れないってば」
「うそつけ」
のらりくらりと主張する声が、眠る寸前そのものであるのに。
「本当だもん」
だもん、という言いかたは、まさに駄々っ子のそれ。
「じゃあどうすりゃいいんだよ…」
日番谷は珍しく参った、というように眉間の皺を増やした。
雛森は、んー…、と暫く唸ると、そうだ、と声を弾ませた。やはりそれものらりくらりではあったが。
「書類読んでて」
「は?」
思っても見なかった提案をされ、日番谷は思わず小ばかにしたように返す。
「日番谷君の声聞いてたら、寝れそうなきがする」
「…………」
ゆったりと顔を綻ばせながらそんなことを言われてしまえば断れるはずもなく。
日番谷は溜め息をついて、少しやけ気味に一枚目の書類を声に出して読んだ。
「『以後このようなことが無きように気をつけます』」
二枚目の書類も読む。
「『以後このようなことが無きように気をつけます』」
三枚目も読む。
「『以後このようなことが無きように気をつけます』」
四枚目。
「『以後このようなことが無きように気をつけます』」
五枚……。
「『以後このようなことが………』」
日番谷は途中放棄した。
「あいつらシメる」
地獄から這いあがってきたような低音で、日番谷は胸のうちの決意を洩らす。
そんな物騒な呟きを聞かされたにも関わらず、雛森はくすくす笑って。
「仲良しだよねぇ、十番隊」
「…………気色悪いこというな」
それがあんまりにも本気の響きだったものだから、雛森は今度は肩を揺らして声を殺して笑う。
「っつーか寝ろ」
だから、と三度目になる台詞を言いかけて、雛森は口を閉じた。
日番谷の指先が、さらさらと雛森の髪を掬い撫ぜる。
それがあんまりにも優しくて、心地よくて。
さらさら。
さらさら。
掬われて、零れ落ち、掬われて、零れ落ち。
一回、二回、三回、四回……数えることは途中で止めた。
以後このようなことが無きように気をつけます、と日番谷の声が繰り返し繰り返し同じ文章を紡ぐ。
それはいつしか雛森の耳に、子守唄のように届いていた。
瞼が重い。
上から下から闇色が迫る。
眠い、と雛森が思った瞬間に、雛森は健やかな寝息を立てた。
雛森が本当に眠ったのかを少し肩を揺すり確かめてから、日番谷は詰めていた息を吐き出した。
髪を梳く手はそのままにして。
膝もそろそろ痺れてきたが、これもまたそのままにする。
甘やかしているという自覚はある。
甘やかされていると雛森が感じているかは、まあ別問題といおうか、置いておくとして。
副官あたりに見つかれば馬鹿にされそうなことこの上ないが、仕方がない。
愛しいから仕方がない。
反省文は読んでも無駄なので(どうせ全員同じ文章だ)、仕事も放棄することに決める。
日番谷は雛森の寝顔を眺めやった。
雛森が起きるまではこのままでいてやる、と意気込んで。
04/05/17
相互リンクさせていただいている『空色郵便』仁志円寿さんのサイトより
伍萬打記念のフリーSSを頂いてきました。
今回のはなんていうか日番谷君が別の意味でカワイイ。
雛ちゃんに甘甘。ついでに隊員たちにも(笑)。
バカップル万歳!
乱菊さんがあの場にいたらどんな反応をするかみてみかったり。
円寿さん、ありがとうございました。
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